アナルフリーダム-第2話
夫の不倫を知った私は茫然自失のまま万引きしてしまうが、ある男性に救われる。
人生に絶望した私は、沖縄の彼の住まいに招待され美しい女性と出会い、生まれ変わる。
作家名:優香
文字数:約2920文字(第2話)
管理番号:k133
電話を切ったばかりの元同僚であった。
今回の不祥事の話し合いに、夫が昨日から本社に帰って来ている、と言う。
まさか!
東京に帰って来ているなら、何故この部屋に帰って来ないのだ。
後ろめたくて私に合わせる顔がないのか。
本社での話し合いの前に、私と話し合うべきではないのか?
それほど、私との結婚生活より会社での体面が大切なのか?
私に隠したままで、済ませるつもりなのか。
何故か、夫が妊娠させたという女子大生に対する嫉妬心は湧かなかった。
夫が私を裏切った事への憤りもほとんどなかった。
ただ夫の行動に対して、何故か他人事のように呆れただけだった。
心が空っぽになったような気がして、脳裏で、元恋人と過ごした日々と悦びに充ちたセックス、夫との淡白なセックスのシーンが渦巻き続けた。
一晩、まんじりともしないで、夜が明ける。
頭の中が混乱してしまっていた私は、ふと気付くと、朝のデパートの宝石売り場にいた。
ただ、部屋を出て、人混みに紛れていたかった。
ただ、外を歩きたかった。
何かを買うつもりでもなかったし、宝石を買うつもりで来た訳ではなかった。
ショーケースに収められた宝石をぼんやり眺めていたら、傍に展示してある安売りのイヤリングが眼に付いた。
元恋人が誕生日プレゼントにくれたイヤリングに良く似たのがあった。
懐かしい彼の笑顔が脳裏を埋めた。
そして。
次の瞬間、私はそのイヤリングをバッグのポケットに入れてしまっていた。
また、次の瞬間、私は我に返った。
何て事!
万引き!?
生まれて初めての犯罪。
逃げなきゃ。
だめ、イヤリングを戻さなきゃ。
バッグのポケットからイヤリングを取り出し、元に戻そうと貌を挙げた瞬間、少し離れた処に立って、私を視ている男性が眼に跳び込んだ。
視つかった!
もう終わり!
眼の前が真っ暗になった。
その場で凍り付いた私に、彼が足早に歩み寄った。
もうだめ!
観念して、彼にイヤリングを差し出した瞬間、彼が驚くような言葉を口にした。
「何だ。おれが買ってやろうと言うのに、そんな安物で良いのか?」
その大きな声で、私は驚いて、慌てて周囲を視回した。
この紳士は何を言っているのだろう。
開店早々で雑用をしていたであろう、近くの女性店員が、彼の声で振り返った。
「本当にこれで良いんだな?」
彼が私の手からイヤリングを取り上げると、レジに行って店員に差し出し、カードで支払いをした。
そして包装されたイヤリングを受け取り、呆気に取られて立ち竦んでいる私に歩み寄って微笑んだ。
「美味しいコーヒーでも飲みませんか?」
次に正気に還った時、私は喫茶店で彼と向かい合っていた。
「貴方のような女性があんな事するなんてね」
コーヒーを一口飲んで彼が微笑んだ。
不思議な表情だった。
50歳くらいか、優しい、しかし、私の心を覆い尽くすような深い眼差し。
「す、すみません」
言葉にした後、彼に謝っても無意味な気がした。
しかし、彼の機転に救われたのは事実だった。
「あ、ありがとうございました」
「おれがあそこにいたのは、実は偶然じゃなくてね」
驚いて彼を視る。
「エレベーターで乗り合わせたのは偶然だったが、貴方の様子が気になって」
“私の?様子が?”
「たまたま、このデパートには買い物で来たんだけど、貴方を視て、何か、取り憑かれたような、危なそうな表情だったから、少し時間もあったし、ちょっと跡を付けさせてもらったんだ。しかし、裕福そうで恵まれていそうで、何の問題も悩みもなさそうな貴方が。ああ、何もなかったらあんな事しないだろうけど」
彼が優しく微笑んだ。
「おれで良ければ話してみませんか?」
彼が微笑んだまま私に問い掛けた。
“おれで良ければ”と言うが、私の人生の破滅を止めてくれた恩人である。
全くの初対面で、男性であろうと、また言い訳がましくても、真実を話さなければいけないだろう。
誰かに話したくても話せる相手のなかった私は、溜まっていたうっぷんを晴らすように、彼に全てを話していた。
夫の浮気、夫に対するセックスの不満、過去の恋人とのセックスを。
私の心の中は、セックスの不満で充満していたので、真実の全てを話すとセックスの話ばかりになった。
さすがに、オナニーで性欲を充たしているとは、話せなかったが。
それでも、彼は私の言葉の端々で、私がオナニーで性欲を慰めていると理解したに違いなかった。
勿論、言葉は控え目な表現を選んだが、それでも貌が火照る程、言葉が震える程、赤裸々な内容であった。
彼に話すのも酷く恥ずかしかったが、しょっちゅう、両隣のテーブルの人達の耳が気になっていた。
ふと、自分の事、自分の想いを、些細な事でさえ、言葉にして他人に語ったのは、これが生まれて初めてだ、と気付いた。
私は、優しい夫はおろか、明るく話上手であった元恋人にさえ、これほどまでに自分の心を深く話した事がなかった。
さっき遭遇したばかりの見知らぬ男性に。
私の中のセックスの欲望をあからさまに。
全てを話せたのは、恐らく彼の人柄が醸し出す雰囲気のせいだったか。
或いは逆に、全く視知らぬ相手だから、何もかも話せたのかも知れない。
心の中を全て曝け出して一息付き、初めて冷めたコーヒーを口にした。
「ちょっと想い付いた事があるのだけれども、厭でなければ、おれにお名前、住所と携帯の番号を教えられますか?」
意外な言葉に一瞬躊躇する。
住所?携帯番号?
出遭ったばかりの、正体も判らない他人に教える物ではなかったが、この紳士に逆らえる立場ではない。
住所と携帯の番号を正直に告げると、彼は携帯電話に入力し、私の携帯にコールした。
私の携帯が鳴ったのを確認した彼が、私に微笑んで携帯をポケットにしまい込んだ。
「悪いようにはしませんよ。貴方を困らせるような事もね」
「は、はい」
さっき遭ったばかりなのに、正体も判らないのに、何故か彼が私の人生を変えてくれそうな予感がし始めていた。
彼が言った。
「誰もが生きていて、色々な事に遭遇する。そしてそれが人生を大きく左右するかも知れない。良くも悪くも。ただね、その良いか悪いかの判断は、その時点では確定しない。多分死ぬ前に想い出せたら、その時に判断するのだろうがね」
その言葉を聴いて、彼は信じるに値するかも知れない、という想いが湧き起こった。
「落ち着いたかね?おれは買い物がある」
彼が腕時計を視てから、伝票を手にして立ち上がった。
私はただ恐縮して何度も頭を下げ、彼の後姿を視送った。
部屋に帰っても何をする訳でもない。
夫は恐らく帰って来ないだろう。
冷めたコーヒーを飲み干して立ち上がろうとした瞬間、ショーツの底が濡れているのに気付いた。
“ああ、わ、私、な、なんて事”
自分のセックス、性的欲望をあからさまに語った事で、性的に興奮していたのか。
それも、恐らく生まれて初めての経験であった。
大きな書店に寄って、時間を潰すのと気持ちを紛らわせるために、想い付くままに小説を数冊買った。
紳士との出遭いを想い浮かべ、彼の言葉を脳裏で反芻しながら、何をするでもなく買い漁った本を読みながら、茫然と時を過ごす。
やはり、夫は帰って来なかった。
同僚からの電話も、もう来なかった。
仮にあったとしても、夫のその後など、もう知りたくはなかった。
“離婚”の二文字が常に心の中にはあった。
(続く)
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