女豹の如く ファイナル-第7話
二十歳を迎えたひろみに、数々の試練が降りかかる。
作家名:ステファニー
文字数:約2860文字(第7話)
管理番号:k115
また、ヒカルにこの事実を伝え、一緒に生きる道は微塵もないとひろみは思う。ホストとして負債を抱え、傍らで男優として稼ぐヒカルは、あくまでひろみを仕事上の相手として、お店においてはお客としてしか自分を見ていない、とあまり優秀な頭脳を持っていないひろみでさえもわかっていた。一流のホストとして、歌舞伎町のトップを目指すヒカルを邪魔できるほど、ひろみは図太くなかった。
母がなぜ公的扶助を受けながら低賃金の介護職を選択したのか、及び妊娠が発覚した後に相手の男に事実を告げなかったのか、ひろみは理解した。数日前に母に対して吐いてしまった暴言をひろみは悔やんだ。貧しくても、辛くても、疲れても、自分を一人きりで育ててくれた母にひろみは感謝した。
ふと空を見上げると、変わった形のビルがある。まるで何かの巣のような、果てまた要塞のような、不思議な形状をしている。いずれにしても、自分は一生、あの建物に足を踏み入れることはなさそうだが。
ごめんね、ごめん。あなたは何も悪くないのに……。
私は勝手だ。世界で一番、勝手だ。
瞳を閉じてひろみは下腹部をさすった。
手術を終え、退院したひろみは、一週間の休みをもらい、部屋で休んでいた。山下が取り計らってくれたのだ。
身体の辛さは尚のこと、心理的な負荷も加わっている。これまでに経験したことのない、空虚さと無気力、悲しみと悔やみが一気にひろみを襲った。
出血がまだ続いていることもあり、ひろみは一人、ベッドで休み続けている日々が続いていた。何も考えることができず、ただただ天井ばかりを見て過ごした。
だが、その閑けさは急遽、打ち破られた。ひろみの携帯のバイブレーションがけたたましく鳴り響いたからだ。
「凜音さん、お休みのところごめんなさい。身体が辛いのはわかるけど、緊急事態なの。今すぐ部屋中の荷物をまとめて事務所に来て欲しいの。一刻を争うわ。悪いけど、急いでもらってもいいかしら」
電話の向こうにいる山下の声は、これまでになく強ばっている。ただならぬ緊張感が漂い、ひろみは胸騒ぎを覚えた。
僅かばかりの洋服と下着、それに化粧品しかない殺風景なひろみの部屋は五分と経たずに片づいた。ショップバッグ6つと貴重品の入ったショルダーバッグを抱え、ひろみはすごすごと寮を出た。
店から2ブロック離れた路地裏にある雑居ビルに、ひろみは大荷物を抱えながらなんとかたどり着いた。途中、貧血が起こりそうであったが、なんとか堪えた。いちご企画の戸を開けると、青い顔をした山下が佇んでいた。
「凜音さん、本当に大変な中、ごめんなさい」
「いえ…」
息も絶え絶えにひろみは答えた。
「心して聞いてちょうだい。アリサが捕まったの」
ひろみの脳裏にアリサと過ごした時間が走馬灯のように蘇った。
「罪状は違法薬物使用。もう三回目よ。完全に実刑ね。まあ、もう何度も出たり入ったりしてるような子だけど」
少し前にひろみが感じたアリサへの違和感はこれ故だったのか、と妙にひろみは合点がいった。
「アリサは、あれは根っからのワルでね。そもそもがヤクザの娘だから筋金入りの不良娘なんだけど。本当にしょっちゅう警察の世話になってる女なのよ。嘘も平気でつくしね」
アリサが自分の身の上話をした日をひろみは思い出した。家族は温かかったと話していた。あれも真っ赤な嘘だったのか。ヤクザの娘だとは一言も口にしていなかった。
「あなたにはどんな風に出自について伝えていたかはわからないけど、嘘八百を吹聴して回ってたのだろうとは想像つくわ。でもね、安心して、凜音さん。捕まる時に警察から連絡があって確認したけど、アリサはあなたにはクスリを勧めてないようだし、アリサ自身も自分一人しか使ってないと供述してるみたいなの。それで間違いないわよね?」
ひろみは激しく首を縦に振った。
「よかった。今後だけど、私が弁護士を通してアリサにはあなたのことは絶対に捜査関係者には話さないように釘を刺しておくから安心してね。それでだけど、凜音さん、悪いことは言わない。だから、今すぐここから、新宿から、いえ東京から逃げなさい。そして二度と風俗に関わらないで生きていきなさい」
ここを、新宿を、東京を出る。ひろみは山下の忠告をどう噛み締めていいのか、突発的には判断がつかなかった。
「…すいません、私はどうすれば…」
山下は憐れむような苦笑いを浮かべた。
「あのね、私たちは叩けば出ない埃はないの。今回のアリサの逮捕によって、警察は間違いなく我々に事情聴取を行う。場合によってはガサが入る可能性もある。そうなると、私もなんらかの罪で摘発を喰らうかもしれないの」
ひろみの肩に山下の手が触れた。その手は案外、重厚だった。甲には年季の入った財布のような皺と斑点が刻まれている。
「私はあなたを巻き込みたくない。あなたは私たちとは違って、その筋の子じゃないってわかるから。真っ当な親の下で、まともに育てられた娘だってね」
それは違う、とひろみが否定しようとしたが、山下は首を横に振りながら制してきた。
「自分を卑下しないの。私もあなたと同じ側にいたから、わかるのよ」
喉に出かかった言葉をひろみは飲み込んだ。
「私はね、そこそこ裕福な家庭に生まれて、別に不自由なく育ったの。子ども時代は勉学に秀でてたから、大人にはちやほやされて、特に不満もなかった。高校を卒業するまでは」
くたびれたグレーのスーツに幾層かの贅肉がくっきりと浮かび上がっている。山下はうなだれたように書類が雑然と散らばるデスクに目を落とした。
「私は地元で一番有名な進学校を卒業して、現役で国立大学に合格した。親は喜んだし、友だちにもおだてられて、先生からもかなり褒められた。だから私は勘違いしてたの。自分はすごいんだって」
山下が経営者としての素質があり、敏腕女社長と呼ばれていることはひろみも知っていた。だが、今、ひろみの目の前にいる山下は至極寂しそうだ。
「その過信が崩れ去ったのは上京して大学に入ってすぐだった。東京では誰も私なんか相手にしてくれないってわかった時ね」
今度は天井を山下は見上げた。
「新入生狙いのサークルの勧誘は私には1件も来なかった。ゼミでも空気扱い。恋人どころか友だちすら見つからなかった」
孤独。
人はどれだけその重圧に耐えられるのだろうか。もしかしたらどんな病気よりも手強く、いかに名医だろうと治療法を見つけることができないのかもしれない。
18歳で、たった一人で上京した女の子が、どう向き合っていいものかわからなかったとしても、不思議ではない。
「一年ぐらいそんな日々を過ごした。やがておんなじカテゴリーに入ってた女の子数人で連むようになって、急場凌ぎの友人は築けた。勿論、とっくに付き合いはないけど」
歌舞伎町の雑居ビルは築年数が古い。きっとずっと昔から染み付いてしまったコーヒーやタバコの匂いが至る箇所から滲み出てくる。
「でもね、ずっとキラキラした学生生活を送っている同級生が羨ましかった。飲み会に行ってたり、サークル合宿に参加してたり、……彼氏がいたり……」
(続く)
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