女豹の如く ファイナル-第6話 2740文字 ステファニー

女豹の如く ファイナル-第6話

二十歳を迎えたひろみに、数々の試練が降りかかる。

作家名:ステファニー
文字数:約2740文字(第6話)
管理番号:k115

それは浜松市内に広大な敷地を有する、世界的企業であった。
「お母さんはあそこの工場の事務をしてたの。やっと自分の自由になれるお金が手に入って、本当に嬉しかった」
山下から最初に金を渡された日のことをひろみは思い出した。母も同じような気分だったのだろう。

「このまま一生この会社で働いていこう、そう考えていたんだけど、そうもいかない出来事があってね」
はにかんだような表情を母はした。
「35歳の時だった。工場に期間従業員で来てた20歳の学生さんがいたの。美術大学を目指して浪人してて、学費を稼ぐためにここに来てた。その人と、……お母さん、男女の仲になってしまったの」

聞いた事もない話だった。母はなぜこんな話をするのか、ひろみは戸惑った。
「程なくしてその学生さんはお金が貯まったからって、故郷に帰った。その直後だった。妊娠がわかったのは」
遠くの病室で何かの異常を知らせる機械音が鳴っている。それがやけにひろみの耳についた。

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「もうずっと独りだと思ってたから、赤ちゃんができたことがすごく嬉しかった。でも喜んでばかりはいられなかった。未婚で妊娠したなんて、職場には言えなくて、退職するしかなかった。運良く相談に行った役所の人が親身に考えてくれて、介護職に就くことを提案してくれた。それでひろみが保育園に入れたのと同時に介護の研修を受けて、浜風荘に転職できたの」

「で、私の父親である男にはちゃんと伝えたわけ?」
母は首を横に振った。
「彼の将来を棒に振りたくなかったの。人づてに彼は美大に合格したって聞いたから」
「ふざけんなよ」

廊下を歩いていた看護師が驚いたような顔で病室を覗き込んだ。ひろみはひと呼吸置いて仕切り直した。
「お母さんの勝手さのせいで、私がどんだけ辛かったことか!」
いつの間にか、ひろみは壁をパンチしていた。
「ごめん、本当にごめんね。ひろみにはいっぱい苦労させちゃって、お母さん本当に悪かったと思ってる……」

ベッドの上で頭を下げる母は、ひろみが見てきた中で一番小さく見えた。これ以上、この人と話したいとは思わなかった。
「もういいから。足りない入院費は持ってきたから」
銀行の包み紙に入った札束を机に置き、ひろみは病室を後にした。母は何かを言いかけていたが、ひろみは振り返らなかった。

お盆も盛りの8月中旬。ひろみは定期性病検査のため、新大久保にある婦人科を受診した。いちご企画として提携している病院であり、ひろみもここに新人の頃からお世話になっている。

川崎はるなの件があり、その後に自身の陰性は確認されたものの、以降は日々、感染の恐怖に怯えている。一通りの検査を終え、待合室で結果を待つ間、ひろみは気が気でなかった。「富近さん、富近ひろみさん、診察室にお入りください」
看護師がスライドドアを開け、ひろみを呼んだ。ひろみはソファから立ち上がり、診察室へと足を引きずった。

「どうぞ、おかけください」
メガネをかけた中年男性の医師がひろみに丸椅子を差し出した。ひろみは無言のまま、そこに腰掛けた。
「調子はどうですか?」
「いえ、特には…」

「そうですか。まず、性病検査ですが、これについては異常はなしです。すべての項目が陰性でした。安心してください」
「はい」
「それでね、尿検査の方なんだけど」
「はい…」

「妊娠反応が陽性で出てるのね」
妊娠反応が陽性………。にわかにはひろみは事態が呑み込めなかった。医師の話は続いていたが、全く頭に入ってこなかった。気づいた時には内診台に乗せられ、膣にカメラをねじ込まれていた。そこから下りると、やはり妊娠してますね、の一言が返ってきた。

一瞬、ひろみの聴覚は窓の外で鳴く蝉の声だけが溢れた。もちろんこの病院はひろみの身分を知っている。今後の処遇についても、ひろみの職業に合わせた提示をしてきた。わけがわからず何も答えないひろみは、一旦待合室に出され、看護師の指示があるまで待つように言われた。

待合室に戻るとひろみはフラフラとした足取りで、ソファになだれ込んだ。
「ストレート、バッターアウト。スリーアウト。4回の裏、東西大菅山高校、無得点。依然、花弁和歌山高校、3点リードのまま、中盤に入ります」
テレビでは高校野球が流れている。暑い中、屋外で運動する彼らが眩しい。真っ当な人生を送っているのは、ああいう人たちなんだろうか。

思えば自分はいつから真っ当ではなくなったのか。家を飛び出した時か。いちご企画で脱いだ時か。ヒカルと最初に寝た時か。はたまた野見にスカウトされた時か。

看護師に呼ばれ、ひろみはいくつかの説明を受けた。すでに山下には連絡済みで、費用はいちご企画で一部負担し、残りは給料から天引きするということ。保証人には山下がなるということ。ごく初期の段階のため、身体への負担は最小限に抑えられるということ。数日間、入院を要すること。手術は二日後に行なわれること…。最後に質問があるか訊かれたが、ひろみは首を横に振った。

病院を出たひろみは、新宿の街をさまよった。西武新宿駅を通り過ぎ、山手線のガードレールをくぐり、西新宿の高層ビル群にたどり着いていた。
もう一年以上、新宿にいるはずなのに、ここまで足を延ばしたことはなかった。見渡す限り、ビル、ビル、ビル、ビル。ここはどこなんだろう、と不安になる。

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一体、自分に何が起きているのか。宿した新しい命は、誰の子なのか。
先月の検査時点では妊娠していなかった。以降、昨日までの間にひろみが性交したのは、田中とヒカルだけだ。
しかし、ここにも疑問が生じる。いずれの場合もきちんと避妊はしていた。どこかで失敗していたということなのか。

このひと月の間に田中とは複数回、身体を重ねた。対してヒカルとは一回だけである。田中の子を宿した、と考える方が妥当だろう。
そう思うとおぞましかった。ひろみは田中を生理的に受け付けない。肌を合わせた後に吐き気を催したことも何度かあった。今、自分の腹に田中の細胞が入っているのかと思うと、一刻も早く追い出したい。

だが、ヒカルの子であったらどうなのか。恋焦がれた相手の子どもである。愛おしい。この手に抱き、共に人生を歩みたいと願ってしまう。
しかし、それは簡単な話ではない。生まれた子をひろみはどうやって育てていくのか。この一年数ヶ月でひろみはそれなりの蓄えは作った。同年代の多くはまだ学生の時分であることを鑑みれば、その額は桁違いなのだろう。

とはいえ、その子どもが成人するまでの期間を養い、さらに自分も含めて生計を立てていけるほどとは言い難い。
もちろん、何らかの仕事はするとしても、それは可能なのか。ひろみは風俗の経験しかない。この子を産んだ後も、また今のような仕事を繰り返すのか。子どもに職業を問われた際には何と答えればよいものか…。

(続く)

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