私の「ヰタセクスアリス」-第7話
私ももうすぐ55歳。そろそろサラリーマン生活も終わりが見えてきました。でも、あっちの方はまだまだ引退するつもりはありません。
明治の文豪、森鴎外は自身の性的な体験を「ヰタセクスアリス」という小説に書き上げていますが、私も森鴎外先生を真似て、自分の性的な体験をまとめてみました。
つまらぬ話ですが、是非お読み頂ければ幸いです。
作家名:バロン椿
文字数:約3420文字(第7話)
管理番号:k096
据え膳喰わぬは
ママの住まいは同じビルの5階の2DK。
結婚してからはソープやSMクラブ等の風俗には行きましたが、こんなことは初めて。かなり緊張していました。
そんな私を品定めするかのように、ママはソファーに腰を下ろすと、「ふぅー、疲れたわね……」と背中のファスナーを外しました。そして、「これがいいわね」なんて、高そうなブランデーを用意してくれましたが、目的はあれです。「へえ、いいですね」なんて言いながらも、気もそぞろ。直ぐに「こっちよ」とママが浴室に入り、私も続き、裸になったママは40歳代半ばだったと思いますが、オッパイこそ少し形が崩れてはいますが、きれいで色っぽく、へへへ、小柳ルミ子さんの若い頃って感じでした。
それで「きれいですね」と言ったら、「ねえ、褒めてるつもりなの?」と軽くあしらわれてしまいました。でも、シャワーを浴びて、ベッドに入ると、ちょっとオッパイを揉んだだけでも、「あん、いや……」なんて可愛らしい声を出して甘えるんです。抱かれ上手というのか、こちらを楽しませてくれる、そんな感じでした。それと、雅子さんやバロネと違い、陰毛を刈り込み、ちゃんと手入れがされていました。
だから、狙いが定めやすく、いつものように股間に顔を埋めて、アソコを舐めると「あ、あ、いや……」とすぐに体を捩り、クリトリスを皮の上からのチロチロ、それから舌先で包皮をクルリと剥いて、直接舐めると、「あ、あ、ダ、ダメ、そんな、そんなことしちゃダメ、イヤッ、ダメー、ダメー……」と誰かに聞こえてしまうのではないかと思うくらいに大きな声で喘ぎました。
もう入れるしかありません。私はママの太腿を抱えましたが、「こ、これを」とベッドサイドに手を伸ばしてコンドームを手渡してくるんです。
やっぱりママですよ。感じているようでも、正体を失わないんですからね。
しかし、良かったですよ。ママは。
個人事業主は辛い
ママとはしばらくお付き合いしましたが、課長と一緒にスナックに行った時は、さすがに気まずく、私は隅に座り、できるだけママとは顔を合わせないようにしていました。
そんな時、課長に分からないように「ごめんね」なんて言ってくれると、もう嫌なことも、ストレスも全てを忘れてしまいます。そんなママなので、「目標が高すぎて、とても出来やしない。やってられないなあ」と泣き言を漏らしたことがありました。
「そうね、そんなことは無理よね。支店長も課長も滅茶苦茶ね」
私はママのそんな言葉を期待していましたが、返ってきた言葉は「何を甘えたこと言ってんのよ」と、予想もしない厳しい言葉でした。
「個人事業主は言い訳が出来ないのよ」
「えっ」
「そうでしょう、『お客さんが来ないの。どうしょう?』なんて言っていたら、お終いよ。何としてもお客さんを呼び込まなきゃいけないのよ」
「はあ…」
「椿さん、あなたは『出来ませんでした』って言えば、『バカ』って叱られるかも知れないけど、銀行からお給料をもらえるんでしょう。でも、私のような個人事業主はお金が貰えないのよ」
私はグラスを握ったまま、何を言えばいいか分からず、「銀行より厳しんだ」とボケたことを言ってしまいました。すると、「個人事業主はやり抜くしか生きていけないのよ」と、おでこを指でピン!と弾かれてしまいました。
この他にも色々と勉強させてもらいましたが、私が転勤して別の支店に移ると、あの課長と店で顔を合わせるのが何となく嫌になり、足が遠のき、ママとの関係も自然解消となりました。
アジアの友
その後、私は本部勤務となり、スナックのママのような出会いは無くなりました。また、非常に忙しくなったこともあり、ストレス解消は以前のようなSMクラブ通いこそしませんが、やはり風俗、それも韓国エステにはまった時がありました。
そこで知り合ったリリーは良かったですよ。
顔立ちは、そうですね、歌手のキム・ヨンジャさんの若い頃かな。まあ、そんなことよりも、彼女とは最初から気が合い、次からはケーキを持っていき、マッサージの前に二人で食べました。
私はハングルは話せませんから、彼女の話す片言の日本語での会話になりますが、それが、また楽しいんです。当時、私は45歳、彼女は30歳代半ばかな、年格好がちょうどよく、ははは、ちょっとした愛人との密会気分でした。
それを何度か続け、5度目か6度目の時、マッサージの最中にパンティの上からですが、アソコをツンツンと指で突いたんです。そうしたら、「あん」とは言うものの嫌がらなかったんです。それで調子に乗って、舐めようとしたら、パンティを脱いでくれたんです。「え、いいの?」と思いましたが、こんな場面で聞くのも野暮です。吸い付くように舐めたら、「ああ、ああ、ああ……」と悩ましい声を出すんです。どちらが客か分からないくらい、私は舐め続け、もうヌルヌルでした。
その日は、それで終わりましたが、翌週行った時には、始めから彼女も全裸になって、互いに舐め合いです。そして、「ああ、ああ、気持ちいい……」なんて日本語で喘いでいたものが、突然、「アイゴー!」と変わり、体を捩って逃げ出したのです。でも、本当に逃げたのではなく、コンドームを取り出すと、私のチンチンに被せ、跨ってきたのです。それこそ、「本当にいいの?」ですが、彼女は迷うことなく嵌め込み、腰を下ろしてきました。エステなのにソープと同じこと。これは感動します。もう夢中で通いました。
店の外でも数回会って、食事をしたり、ははは、彼女にとって、「仕事抜き」ですが、私はしっかり「抜いてくれて」、いや、セックスして、本当に楽しかった。
しかし、翌年、突然、「来月、韓国に帰るから」と言われ、「えっ、どうして?」と聞きましたが、「ビザ」とか言ってました。それでも「外で会いたい」と言ってくれましたが、予定が合わず、会えず終いで、この「恋」は終わりました。
次に知り合ったのが、中国ハルピン出身の王(ワン)玲(リン)さんです。元々は仕事で知り合った中国人SEの徐さんがお気に入りのスナックのママで、43歳。日本語がとても上手で、頭が良くて、色白の美人。ちょっと気が強いところが欠点と言えば欠点ですが、本当にいい女性です。でも、彼女に言わせれば、気が強いのは中国東北部の女性の特徴だとか。日本で言えば群馬県のカカア天下ですか。
仲良くなったきっかけは言葉です。韓国エステのリリーとは日本語ばかりで、ハングルで会話が出来ませんでした。しかし、今度は何とか中国語で話が出来ないかと、最初は「ニーハオ」なんて挨拶くらいでしたが、高校時代に習った漢文で筆談をしているうちに、楽しくなって、徐さんの通訳抜きでも少しなら中国語でも会話が出来るようになりました。
こうなると、徐さんには申し訳無いのですが、徐さん抜きの方が良くなり、スナックに通ううち、ついに……日本語が堪能な徐さんからは、「椿さん、中日友好、頼みます」なんて応援されました。
この時、私は48歳でしたが、ホテルに入ると、一度では終わらず、必ず二度はしました。何しろ、細身でおっぱいが大きく、それに感じ過ぎると、「あわわ……」と私は頭を掻きむしりながらオシッコを漏らしてしまうんです。だから、腰の下にはバスタオルを二重に織った物を敷き、危なくなると、クンニしている私の肩を叩き、「もういいから、もういいから、オチンチンちょうだい」と訴えてきます。それ以上になると、オシッコが漏れるのと、日本語にならなくなるからです。
挿入して腰を使いますが、脚を絡めてくると、どうも搾り取られるようで、「あ、あ、い、逝きそう」なんて言うと、「ダメ、ダメ、もっと」と腰をぶつけ、「アッ、アァァァ、ハオ(いい)、ハオ(いい)、ア、アッ、アァァァ……」と喘ぎが中国語になります。
しかし、これ以上にベッドでのことを詳しく語ってしまうと、王玲さんに叱られますから、彼女とのことはこれくらいにしましょう。
このように、徐さんら中国人のSEや王怜さんと知り合い、親しくお付き合いをするうちに、彼らが中国版のLineである「WeChat(微信)」を使っていたので、私もそれを使うようになりました。まあ、Lineと同じですから便利です。今も、中国に帰国した徐さんとは無料通話やテレビ通話もしますし、勿論、王玲さんとの電話でもWeChatを使っています。
そして、何よりも大きな「武器」となったのが、50歳で出掛けた中国出張です。
(続く)
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