凄い熟女~他人には言えない体験-第1話
もう40年も前のことですが、私は凄い熟女に会いました。
周りの人たちから「お京はん」と呼ばれていた40代半ばの、色っぽい人で、19歳だった私をいろいろな意味で「大人」にしてくれた恩人です。
今も元気なら、80代後半。もう一度会いたい。今回はその人の思い出を語りましょう。
作家名:バロン椿
文字数:約3020文字(第1話)
管理番号:k135
出会い
あれは、もう40年も前のことだが、とても忘れることができるものではありません。
当時、私(吉本啓治)は高校を卒業したばかり。
「そんなちゃらんぽらんで、将来どないするんや」
「ええやんけ、俺の人生や」
「アホ!」
高校2年の頃から、こんな風に親父と何度も衝突の挙句、卒業と同時に家を飛び出し、故郷を遠く離れたパチンコ屋に、住み込みで働き出しました。
でも、その頃のパチンコ屋といったら、前が霞むほどにタバコの煙が充満する中、パンチパーマのオヤジたちが「おい、出えへんで!」と台を蹴飛ばし、「いやあ、次にチャンスがきまっせ」なんて言えば、「アホ!金、返せー」と、こんな激しい言葉が飛び交う、まあ大変なところです。
そんな店に、毎日現れ、店長なんかは、「あ、まいど。何時もご贔屓に、おおきに」とペコペコ頭を下げる、40代半ばでしょうか、当時、人気のあった歌手の扇ひろこさんに似て、色っぽいけど、ちょっと怖いような女性がいました。
「誰ですか?」と先輩店員に聞くと「ああ、あれか。あれは『京子』(きょうこ)って飲み屋の女将やで」と言いながら、辺りを気にして、誰も居ないことを確かめると、「ある組の組長の女て噂があるさかい、気ぃつけな」と忠告してくれました。
しかし、私は世間知らず。怖いより興味がわいて、むしろ積極的に「いらっしゃいませ」と挨拶すると、「あら、新人さん、頑張ってや」とお尻をポンポンと叩かれ、「うちにも遊びに来てや」と声を掛けられました。
でも、高校を出たばかり、19歳にもなっていない時です。ビールこそ隠れて飲んだりしたことはありましたが、飲み屋なんか行ったことはありません。初めて『京子』の暖簾を潜ったのは、ゴールデンウィークを過ぎた5月中旬、先輩に連れられてでした。
すると、「あら、来てくれたん」と笑顔で迎えてくれた彼女は、「でも、まだ未成年やったわね」と言いながらも、「内緒やで」とビールを出してくれた。その上、「間違えて作ってもうたさかい、これ食べて」と頼んでいない出汁巻き卵や肉じゃがをサービス。先輩は立ち上がって、「どうもおおきに」と最敬礼したが、「あんたにちゃうよ、この子にやで」と言われてしまい、「へっ、お前にかいな。恥かいた」と、その場はすっかりしらけてしまいました。だが、私は嬉しくて、それからは、仕事が終わると一人で頻繁に彼女の店に足を運ぶようになりました。
『京子』は私が勤めていたパチンコ屋とは駅を挟んで反対側の、雑居ビルの1階にあり、一人で切り盛りする彼女は、その気っ風の良さから、常連さんに“お京(けい)はん”と呼ばれていました。
私も、通った回数では常連の一人かも知れませんが、なにせ19の子供。とてもそんな言い方はできず、「女将はん」と呼んでいました。しかし、時々、午後11時の看板後、「ちょい付き合うてや」と、余り物で一杯やる彼女の相手をさせられるようになると、「『女将はん』なんて、他人行儀はやめて。これからはうちが『啓治』と呼ぶから、あんたはうちを『京子』って呼んで」と言われました。
だが、私たちは親子ほど年が違う。「いや、それは」と口ごもると、「うちとあんたとは、もうそういう仲なんよ」とはっきり言われました。
今、考えてみれば、それはとても意味深な言葉でしたが、当時の私は何もしらない「子供」だから、「へえ、そんなに親しくなったんか」くらいにしか考えませんでした。実際、「何なの、あのお客」といった愚痴をぶちまけられたり、私の身の上を案じて、「なんでパチンコ屋に勤めることになったん?」と言ったり、時には「一端の大人になった顔をせえへんで、親には甘えんねん」と説教みたいなことばかりだったから、たいした間違えでもなかったかも知れません。
でも、深夜に二人きりでいれば、それでは物足りなくなるのが、男と女。それで、9月上旬だったと記憶しているが、生意気というか、背伸びしたというか、「京子は、きれいやさかい、わしは好きや」なんて言ってしまいました。すると、彼女は手にしていたグラスのお酒をグッと煽ると、「本気なん?」とマジな顔で迫ってきました。だけど、そこが、やっぱり、「子供」。「あ、いや、えっ、あ」とたじろぎ、次の瞬間、「アホ!」とおしぼりが飛び、「覚悟があれへんのやったら、そんなん言わんといて」と叱られてしまいました。
その夜はそれで終わりましたが、私も男。そう言われたら、「覚悟」を決めるものです。それが、あの日でした。
覚悟の夜
1週間後の、9月半ば、まだまだ残暑の厳しい夜でした。
午後7時過ぎ、私が店に行くと、お京はんは「なんや、啓治か」と素っ気なく、カウンター席に座った私に「はい」とビールとお通しを置くと、「ははは、そうなん?」とすぐに他のお客の相手をして、私を無視しているように感じました。それでも、まあ、忙しいからかと思い直し、「あの、これ」と料理を注文しましたが、「これでええな」と、その料理を置くと、また同じように、「それで、どないしたん?」と他のお客のところに行ってしまい、話しかける暇もくれません。
しかし、このままでは帰れません。それで、午後9時前、カウンターのお客が入れ替わるタイミングで、「何怒ってるんか」と言うと、お京はんは「遊びなら付き合えへん」とグラスや皿を片づけるだけで、目も合わしてくれません。私は意を決して、「こっちを見い、わしは本気やで」と彼女の腕を掴みました。すると、私の目をじっと見たお京はんは「ウソをついたら許せへんさかい、ええな」と包丁の先をこちらに向けました。ここで逃げたら終わり。私は「ほんまだ。ウソや思うんやったら、それで刺したらええ」と言い放ちました。
「おい、ビール」
テーブル席からそんな声が聞こえてきましたが、「ちょい待っとって」とお京はんは言ったまま私を見詰めていましたが、「そうか」と微笑むと「せやったら、こんなとこにおれへんで、うちに行こ」と言うやいなや、ポン、ポンとビールを2本開け、それを持ってテーブル席に行くと「悪いねえ、今夜は早仕舞いするさかい、これで許して」と言って、お客さんたちに頭を下げていました。お客さんたちは「えっ、なんで?」と不満気でしたが、「堪忍な、ちょっと頭が痛とうてな」と頭を下げるお京はんに逆らう者などいません。「そうか、そら仕方ないな」と帰っていきました。
大人なら、「うちに行こ」と言われた段階で、この後、どうなるか想像がつくものですが、私は全く分からず、ぼやっと見ていると、「啓治、何してんねん?早く片付けて」とお京はんから小言が飛んできました。
そんなこんなで、店の掃除を終えると、時刻は午後10時半。「ふぅぅ……」と割烹着を脱いだお京はんのワンピースは汗で滲み、「こらあかん」と、私たちは閉店間際の銭湯に駆け込みました。
まあ終い湯ですからお客は疎ら。大きな湯船にゆっくりと手足を伸ばして浸かり、心身共にリラックス。頭も洗ってすっきりして、「ああ、気持ちいい」と牛乳を飲んで、下足場で待っていると、10分ほどして浴衣に着替えたお京はんが「すっきりしたわ」と出てきました。
時刻は既に午後11時半を過ぎ、時間が気になりますが、こうして二人肩を並べて歩く嬉しさと、深夜に女性の家に行くことに、私はようやくドキドキしてきました。そして、ぷらりぷらりと歩くこと約10分。「狭いとこなんよ」と着いた家は四畳半と六畳二間の粗末な建物でした。
(続く)
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