協奏曲-第1話 3150文字 バロン椿

協奏曲-第1話

40歳半ばのピアノ教室の主宰者、水元(みずもと)啓子(けいこ)。白いブラウスにネイビーのスカート、薄化粧で、肩まで伸びた髪を無造作に後ろで束ねた姿は、音楽家というよりも、学習塾の教師のようだ。
彼女には20歳近く年の離れた、新進気鋭のピアニスト、吉野(よしの)幸一(こういち)という恋人がいる。
ステージ上では「鍵盤の魔術師」と言われる彼もベッドの上では啓子と「協奏曲」を奏でるが、二人の馴れ初めは何か?少し時を戻して振り返ってみよう。

作家名:バロン椿
文字数:約3150文字(第1話)
管理番号:k113

今、行きます

マンションの一室。ダン、ダダダン、ダン、ダンと力強い響きが聞こえてくる。
中を覗くと、小学生の女の子が一心不乱にピアノに向かっている。
曲は軽快なリズムに転じ、途中から優雅な調べに、そして、終盤に差し掛かると、再び、ダンという力強い響きで山場を作り、最後は静かにトンという小さな音で終わった。

弾き終えた女の子は伏し目がちながら、右隅に座る女性教師の顔色を窺っていたが、「洋子ちゃん、良かったわよ。偉いわね」と言う言葉を聞き、ようやく緊張から解放されたのか、「ふぅー」と息を吐くと、額に滲んだ汗をハンカチで拭っていた。
そして、「それじゃあ、また来週」と言われ、「はい、先生、ありがとうございました」とお辞儀をした女の子は、これ以上ないくらいの笑顔で部屋を出ていった。

ピアノ教室の主宰者、水元(みずもと)啓子(けいこ)。年齢は40歳半ば。白いブラウスにネイビーのスカート、薄化粧で、肩まで伸びた髪を無造作に後ろで束ねた姿は、音楽家というよりも、学習塾の教師のようだ。

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今日はこれで終りね……と鍵盤を乾いた布で乾拭きすると、ベルベットのカバーをかけ、蓋を閉じたが、その時、しかし、ブルブル、ブルブル……と聞き慣れた着信音と共にテーブルの上のスマホが震え出した。

その瞬間、啓子の頬は10代の娘のように赤くなった。
「鍵盤の魔術師」と言われ、各地のコンサートホールを飛び回る、恋人の吉野(よしの)幸一(こういち)からのメールだ。
用件は見なくても分かる。確かめるのは「福岡市○○ホテル××××号室」という文字だけ。

浴室でシャワーを浴びた啓子は彼の好みのウオーターブルーの下着を身に付け、ドレッサーに座ると、ダークブラウンでアイラインを引き直す。
あなた、待ってて……と逸る気持ちを押さえつつ、啓子は旅支度を始めた。

才能との出会い

「啓子さん、大学院を終えたら結婚するって本当?」
「ええ、実家の方でいい話があるからって、先月お見合いしたの」
「そう、良かったわね。お幸せに」
(何が「良かったわね」よ、人の気持ちも知らない癖に……)

啓子は悔しかった。プロを目指して音大の大学院まで進んだのに、どこからも声が掛からなかった。
「あの子、いい腕だけど、体に迫力がないよね。あれじゃあステージでは映えないよ」
ある楽団のオーディションを受けた時、関係者が話しているのを偶然聞いてしまった。ショックだった。技量がダメならまだしも、体つきで落とされるとは、考えてもいなかった。

(背は160センチあるのに、バストが80、やせっぽちってことなの?そんなことでダメなんて……)
不完全燃焼で結婚してもうまくはいかない。
「おいおい、ピアノもいいけど、家事もしっかりやってくれよな」
「私、手抜きをしたつもりはありませんが」
「そうは言ってないけど、時間さえあればピアノばかり弾いているから」

こんなことを言われると、啓子もストレスが溜まり、
「あなた、テーブルの上の書類、片付けて下さい」
「ああ、今やるから」
「『今やる』、『今やる』って、寝てばかりじゃないの」
と刺々しくなり、案の定、5年も持たずに離婚してしまった。

「帰ってらっしゃい」と実家からは言ってくれたが、啓子にもプライドがある。「独り暮らしするくらい、私にだってできるわ」と慰謝料代りに貰ったマンシヨンの一室でピアノ教室を開いた。幸い、「音大の大学院出よ」と口コミで広まり、「娘をよろしくお願いします」と多くの生徒に恵まれた。そんな時、「どうだい、上手くいっているかい?」と大学院時代の恩師から電話が架かってきた。

「プロに成れない、ダメな女」と見捨てられたと思い込んでいた啓子にとって、それは全く考えてもいなかったことで、「は、はい、何とか」と口ごもっていると、「いい子がいるから、面倒見てくれないか?」というこれまた驚く言葉が続いてきた。

恩師のところには、才能溢れる若者が自薦、他薦を問わず多数押し掛けて来る。しかし、受け入れるにも限界があるから、余程飛び抜けた才能の持ち主以外は、「頼むよ」と教え子に預けるもので、啓子のことを気に掛けていた訳では無く、単にその順番が回ってきただけだったが、離婚して、心が傷ついていた啓子にとっては、これ以上ない「贈り物」、「は、はい。頑張ります」という声は涙で震えていた。

しかし、啓子の心は複雑だった。上手く育てば「よくやった」と褒められるが、逆の場合、「才能を潰した」と言われ、今度こそ、「ダメな女」と本当に見捨てられる。
そんなプレッシャーがじわりじわりと啓子の心を苛み始めた、3月。高校進学前に、「よろしくお願いします」と母親に連れられた吉野(よしの)幸一(こういち)が挨拶にやってきた。

だが、背丈は自分より少し大きいくらいで、華奢な体。指なんか女の子みたいに細くて長い。見かけはとても貧弱。期待していただけに、「えっ、この子が……」と、顔にこそ出さなかったが、がっくりしてしまったが、
モーツアルトを弾かせると、凄い。ぐいぐい引き込まれる。

その時、啓子は自分がプロになれなかった理由が分かってきた。体つきじゃない。体から発するオーラとでも言うべき、輝きというか迫力というか、自分にはこれが無かったんだと気が付いた。そして、「この子はなれる。きっとプロになれる。いや、何としてもプロにしなくては。そのためなら何でもしてあげたい!」と強く思うようになった。

彼が15歳、啓子が32歳の時だった。
しかし、そういった思いは必ずしもプラスに働かない。
思いが強いだけに、少しでもミスをすると、「何をやっているの!」と声を荒げて叱ったり、些細なことにも執拗に注文を付けたりする。そして、それが理解できないと、「もういい。帰りなさい!」と感情的な言葉を発したりする。

レッスン待ちで、隅に座って控えていた高校2年生の葉山(はやま)弥生(やよい)には苛めとしか映らない。
だが、幸一は決してへこたれない。「もう一度、お願いします」と最初から弾き始めるが、直ぐに「ダメ、ダメ、ダメ!」とヒステリックな言葉が飛んでくる。弥生は自分が叱られているようで、思わず背筋をピシッと伸ばして座り直してしまう程だった。

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「5分、お休み」と啓子がトイレに行った空きに、「よく我慢出来るわね」と幸一に声を掛けると、「え、あ、うん……でも、僕が下手だから」と強がるが、顔は真っ青。思わず、「もう、私、怖くて。『ダメ、ダメ、ダメ』、あの声を聞いただけで、震え上がっちゃった」と同情すると、「僕は先生みたいにピアノが上手くなりたい。だから、先生も厳しくしているんだ。もっと練習して、褒められるようにならなくちゃ、いけないんだ」と泣き言どころか、しっかりした口調で前を見つめ、再びピアノに向かっていた。

弥生は感心したというか、呆れたというか、「私には無理ね」と呟くと、椅子に座ってスマホをいじっていた。
神様は見ていると言うべきか、こういう姿勢と努力は実を結ぶ。彼の技量はみるみる上がり、秋には地域のピアノコンクルールでは「素晴らしい」と審査員から褒めの言葉を頂き、弥生がとても追いつけないレベルまでになった。

だから、啓子の情熱も倍加する。上達すると、「そうよ、幸一君、いいわよ」とオーバーなくらいに喜び、抱きついて褒める代りに、うまく出来なければ、「何をやっているの!もう一度」とレッスンの時間など関係なく、出来るまで、時には夜11時を過ぎることもあった。

そんな時、迎えにきた母親も「ダメ、ダメ、やり直し!」と叱る啓子の気迫、情熱に押され、レッスンが終わるまで口を挟めなかった。
季節は冬に変わり、啓子のレッスンは一層熱を帯び、週末などは深夜に及ぶことなど度々。だが、幸一の母親は啓子を信頼し、全て任せていた。

(続く)

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