淫魔大戦-第3話
淫魔、それは、人にこの世では味わえない淫靡な快楽の極致を与えてその果てに命を取る妖怪である。淫魔が目覚めたとき、そしてそれを人類が知ったとき、壮絶な戦いが始まった。
作家名:キラ琥珀
文字数:約2340文字(第3話)
管理番号:k107
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中国
忍辱寺が創建されたのが何時なのか、はっきりとは知られていない。
一説によれば諸葛亮が没してすぐに、彼を祀るために建てられたということだ。
忍辱寺は蜀の深山の中にあるので、この説は説得力がある。
〈忍辱〉とは、さまざまな労苦を忍受する、という意味である。
この名前のとおり、忍辱寺に住まう僧侶たちには、高い徳が求められた。
いかなる労苦や侮辱にも耐え、僅かな迷いもなく仏道に励まなければならない。
創建から、何百年という年月が経った。
唐が滅び、世は麻の如くに乱れた。
至る所で戦乱がある末世なのだ。
末の世。
このままではいけない。
忍辱寺では、さらに修行が厳しくなり、読経の声が大きくなった。
今こそ、厳しい修行をし、迷わず仏道に精進しなければならないではないか。
さて、それは、春の夜であった。
深い山中でも、ようやく雪が消えかかった、その頃である。
忍辱寺は嵐に包まれた。
嵐である。
秋ならば、嵐が来ることは自然の節理として納得が行く。
だが、季節が違う。
春先なのに、この嵐――。
これこそ世の終わり、と僧侶たちは恐れた。
そして、一晩中、読経を続けたのであった。
堂内に、読経の唱和が満ちる。
大風の悲鳴、森の木々の叫びが壁を通して響いてくる。
深更になったとき、大きな音が轟いた。
霊安堂の方向である。
いまこそ一期の境なり。
僧侶たちは、さらに大きな声で読経をした。
夜が明けて、嵐は消えた。
我らが仏力の勝ちじゃ、と僧侶たちは、ほっとした。
あの音は何だったのか、と僧侶たちは、霊安堂へ向かった。
霊安堂の周囲には瓦が散乱していた。
屋根が壊れているのだ。
霊安堂に入ると、板敷きの真ん中に、大きな木材が鎮座していた。
人間の背丈の倍ほどもある、巨大な木材である。
嵐で折れた生木ではない。
明らかに古木なのである。
嵐で飛んできて、屋根を突き破ったのだ。
一体、どこから――。
その古木に近づくと、馥郁とした匂いがした。
「これは、伽羅……?」
僧侶たちは、顔を見合わせた。
伽羅ならば、仏像を彫るのにも使う、尊い木である。
だがしかし、本当に、伽羅なのか――。
僧侶たちは、疑問に思った。
季節はずれの嵐、どこからともなく落ちてきた古木、しかも落ちた場所が霊安堂である。
これは、悪神が、我々を試しているのかも知れない、と考えるのも当然であった。
忍辱寺の座主である円仁は、「ともかく、少し様子をみることにしよう」と決めた。
念のため、霊安堂へは近づかないこと、とした。
次の日、座主は、講堂における講義で、この古木を話題に出した。
「如何なるや、これ、天与の木」
というわけである。
真っ先に答えたのは、忍辱寺創建以来の秀才、と誉れの高い円義であった。
彼は、確かに空から落ちてきた古木ではある、しかし、天与ではない、と断定した。
天与とは、天からの授かりもの、という意味になる。
仏道修行の場所に、仏像を彫るための木が落ちてくる、これほど幸運なことはない。
だがしかし、と円義は胸を張った。
そのような幸運があるはずはない。
幸運を認めただけでも、他力依存になるではないか、と論じた。
我らは何のために修行をしているのだ、自らの手で真理を開悟するためではないか、というのである。
最後に、円義は、声を大きくした。
「古木のあの匂い。艶めかしい匂い。あれこそ悪神の誘惑である」
満座の僧侶たちは、なるほどと頷いた。
座主も、「さすが秀才」と満足であった。
あの古木は燃やすことにする、と座主が言おうとしたとき、「お待ち下さい」と声が上がった。
末座から立ち上がったのは、まだ若い円悌であった。
円悌は、高貴な血筋であり、複雑な事情で忍辱寺へ引き取られたのであった。
僧侶としての才能は、ほとんど無いようであった。
頭の回転が悪く、日々の作務すら満足にできない。
仏典を理解し、仏義を論じるなど、とても無理なようであった。
もし高貴な血筋でなかったならば、すぐにでも寺から追放されていたであろう。
出自は高だが、才能は低、と皆は思っていた。
その円悌が、講堂で論を始めたのである。
「あの古木は、本当の天与です。古木には吉祥天さまが潜んでおられる。彫らねばなりません」と、円悌は言った。
「天与などない」と、円義。
「ございます。例えば……」
円悌は、隋の寿光寺で起きた奇事を説明した。
ある朝、寿光寺の庭の池に大きな木が浮いていた。
一人の老僧が、憑かれたように鑿をふるって古木から菩薩像を作った。
その菩薩像は、隋の滅亡を予言したそうである。
講堂を埋めた僧侶たちは、あぜんとした。
愚鈍と思われていた円悌が、寿光寺の奇事を知っている――。
「寿光寺は昔の言い伝え。現実にあるはずはない」と、円義は反論した。
「今は、末世。だからこそ奇事も起きます」
「寿光寺は菩薩像。おまえは吉祥天と申した。それはないだろう」
「いえいえ。そもそも、天竺において……」
円悌は、仏教の成立から説き起こし、寺に吉祥天が存在する必然性を述べた。
円悌の所作は、堂々としたものであった。
日頃の円悌からは、想像もつかない立派な態度なのだ。
さすがの円義も、反駁できなくなった。
それで、別な角度から反論することにした。
「あの木の匂いは何とする。清浄なる寺には艶めかしすぎる」
「あれを艶めかしい、と思うのは円義さまが卑しいから」
「な、なんだと」
「円義さまには、あの木の意味が分かりますまい。あの木の中に吉祥天さまが見えるのは、私のような高貴な者だけ」
もちろん、円義は怒りだした。
講堂は大騒ぎとなった。
座主の円仁は、大声で皆を静めた。
この議論は明日に持ち越す、今夜は、皆、冷静にもう一度考えるように、と申し渡したのだ。
僧侶たちは早寝である。
夜半になり、血のように赤い彗星が夜空に現れたのだが、それに気が付いた者はいない。
皆、深い眠りについていたのである。
(続く)
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