淫魔大戦-第1話
淫魔、それは、人にこの世では味わえない淫靡な快楽の極致を与えてその果てに命を取る妖怪である。淫魔が目覚めたとき、そしてそれを人類が知ったとき、壮絶な戦いが始まった。
作家名:キラ琥珀
文字数:約3310文字(第1話)
管理番号:k107
第1話 シュメール
空には一片の雲もなかった。
灼熱の太陽が輝いていて、赤茶けた大地を焼いていた。
起伏の多い地面は、固く、その地面が見えないほど大小さまざまな石が転がっていた。
この熱砂地帯を動いているのは二頭のロバだけだった。
一頭のロバにはアシュトンが乗っていた。
もう一頭のロバには、石刃の穂先を付けた長槍を持って革の鎧を身につけた屈強な兵士が乗っていた。
アシュトンは、エネルギーに満ち溢れた青年であった。
それでも、この暑さにはうんざりしていた。
頭の上からは太陽が照り付け、荒れ果てた大地からも熱が反射している。
せめて風があればいいのだが、それもない。
視界も悪い。
行く手に見えるのは大きな丘の稜線だけであり、その丘の上に到達すれば、次に越えなければならない丘が見えるだけなのだ。
先が見えない、ということだけでも疲れてしまうのだった。
ただひとつ有り難いことは、この大地を歩かないですむことであった。
ロバに乗っているのだ。
これまでに、二、三度ロバを見たことはある。
だが、珍しくて貴重なロバは、貧しい村に住んでいるアシュトンにとっては無縁なものであった。
ロバに乗って移動するのがこれほど楽だとは、アシュトンにとっては驚きであった。
しかし、それにも限度がある。
ほとんどまる一日乗っていれば、うんざりしてしまう。
アシュトンを護衛している兵士もうんざりしていた。
なぜこんな若造の護衛をしなければならないんだ、と思っているのだ。
彼は勇気に溢れた兵士であった。
もし、河の彼方にある都市を攻めよ、と都市ウガシュの宗主から命じられれば、真っ先に駆け出したであろう。
交易のために市場へ行く宗主を護衛することも、いささか退屈なことではあるが、名誉ある任務だと思っている。
しかし、若造の護衛では名誉すらもない。
彼の住む山から都市ウガシュまで、ほとんど一日がかりの道を、護衛しながら連れてくるのでは退屈があるだけだ。
太陽が南中して休憩したときには若造にパンを渡した。
なぜ貴重なパンを食べさせるのだ、干した羊肉で十分じゃないか。
そもそも、なぜ、都市の宗主エンシュマは、この若造を連れてくるように命令したのだろうか。
この若僧に、どんな価値があるというのだろうか。
こうした不満や疑問が兵士の心に積み重なって、うんざりしていたのだった。
アシュトンには、都市ウガシュの宗主から呼ばれた理由が、うすうすと分かっていた。
その理由しか思いつかないのだった。
彼は人には見えないものを見ることができた。
そもそもの始まりは、まだ小さい子供のころ、祖父と星空を見ていたときのことであった。
祖父は星を見ながらいろいろな話をしてくれた。
恋に破れて自殺をした乙女は天の星になった……。
大河の底に棲む大魚は、夜は多くの星に囲まれて眠っている……。
古くからの伝承や、その場の思いつきで作った話をしてくれたのだった。
そのとき、アシュトンには、夜空を横断する青白い光の筋が見えた。
「じいちゃん、あの光は何?」
「え、光の筋? そんなものないよ。あ、ああそうか、アシュトンには見えるんだよね。あれは神様が地上へ向かっているんだよ」
祖父はアシュトンの想像力をほめたのであるが、彼は実際に見たのであった。
青白い光の筋が夜空を進んでいく――。
その後、アシュトンは、自分には見えるものが人には見えていないことがあるんだ、ということを理解した。
透視である。
山の斜面から羊たちがいなくなるのを透視したことがある。
その後、疫病で羊たちが死亡するという事件が発生した。
兵士たちが戦うのを透視したことがある。
都市ウガシュと都市イルの間で激しい戦闘があったのは、それから三か月後のことであった。
アシュトンがそれを知ったのは、さらに三か月後のことであった。
天球を白い火が輝くのを透視したこともある。
その後、彗星が現れたが、アシュトンは、白い火と彗星は別なものだと思っていた。
夜空のなにもないところに白く輝く星が出現したのは一年後のことであった。
人には見えないものが見える、ということを、積極的に人に話したわけではない。
しかし、アシュトンの能力は、次第に村で評判になっていた。
一か月前のこと、村の長が空中に浮かんでいるのが見えた。
このことを、アシュトンは、うっかりと隣家の老婆に話してしまった。
そのすぐ後、村の長は谷に落ちて死んでしまった。
空中に浮かんでいたのは、谷に落ちつつある姿なのだった。
隣家の老婆は、前からアシュトンの能力にうすうす気が付いていたので、人の死を予言したと大げさに吹聴してまわった。
こうして、アシュトンは透視が出来る、ということになった。
それが都市ウガシュの宗主の耳に入ったのであろう。
人には見えないものが見えるのは、いつもというわけではなかった。
熱砂地帯をロバに乗って移動しているこのときには、先に何があるかは見えなかった。
それで、大きな丘を越えたときに、アシュトンは驚いた。
視界が開けて、彼方に大きな河が現れたのだ。
河沿いには広大な麦畑があり、その中ほどに都市ウガシュが見えた。
都市ウガシュの偉容もアシュトンを驚かせた。
高い城壁に囲まれて周囲を睥睨しているのだ。
河からの風が心地よかった。
麦畑を進んで都市ウガシュの城門に着いたとき、アシュトンは、何とはなしに空を見上げた。
太陽が河の彼方に沈みかかり、空が赤く染まっている。
城門を入ると、石畳の道がまっすぐに続き、その左右に日干し煉瓦の家々が整然と並んでいた。
兵士は、ロバに乗ったまま道を進んでいった。
アシュトンは、若い好奇心のままに辺りを見回しながら、兵士の後に続いた。
都市の東の端にある大きな祭壇の前まで進むと、兵士がロバから降りた。
「ここで待て。報告してくる」
兵士は、ひときわ大きな家に入り、しばらくしてアシュトンを呼んだ。
「入れ」
部屋の中では、書記たちが麦の収穫量をビーズで計算し、粘土板に記録していた。
この公務室を通って奥の部屋に入り、アシュトンはさらに驚いた。
さまざまな色の布や宝玉で壁が飾られていたのだ。
宝玉は獣脂の灯明で光り輝いていた。
そして、部屋の東側には、濃い髭を生やした偉丈夫が立派な椅子に座っていた。
一目で宗主のエンシュマであることが分かる。
彼の左右に護衛の兵士がいるのは当然として、アシュトンが気になったのは、奥に控える侍女たちであった。
これほどきれいな女性を見たことがなかったのだ。
きれいなだけではなく、胸や頭を宝玉で飾り立てていた。
耳には、葉のように薄いものを下げていて、それが黄色に輝いていた。
侍女たちの脇には禿頭の老人がいたが、侍女たちの輝きに隠れてしまい、アシュトンが気にとめることはなかった。
宗主のエンシュマは、アシュトンを座らせると、太い声を出した。
「おまえ、王という言葉を知っているか?」
アシュトンは、首を横に振った。
いきなり話が始まり、しかも何のことだかも理解できず、首を振るしかなかったのだ。
「宗主たちの上の存在として王という言葉が作られた」
宗主たちの上、というのがアシュトンには分からなかった。
一番偉いのは都市の宗主なのではないか。
宗主は、次のように言った。
「天には神がいる。アスプやランラなどの多くの神がいて、最高神がエンキーだ。この地上には多くの都市がある。その都市をまとめて上に立つものは、もはや宗主ではない。それ以上の者だ。それが王という名前だ。わしは、その王になりたい。いや、なるつもりだ。これを使ってな」
エンシュマは、細長い板のようなものを取り出した。
アシュトンは、はっとした。
その板のようなものに血が付いているのが透視できたのだ。
これほどはっきりと透視できたことは、これまでになかった。
「これは矛というものだ。あの大河のはるか上流の異地でしかできない青銅というもので作られている。厚い革の鎧を切り開く鋭さがある。これを使えば王になれる」
青銅とは何か、アシュトンには分からなかった。
異地でしか採れないとすると、黄金のようなものなのであろうか。
もっとも、黄金というものも、噂で聞くだけで見たことはなかったのだが。
「ところでアシュトン、おまえは透視ができるそうだな」
やはりそうか、とアシュトンは思った。
(続く)
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