現代春画考~仮面の競作-第10話
その話は、日本画の巨匠、河合惣之助の別荘に、悪友の洋画家の巨匠、鈴木芳太郎が遊びに来たことから始まった。
本名なら「巨匠が何をやっているんだ!」と世間がうるさいが、仮名を使えば、何を描いても、とやかく言われない。
だったら、プロのモデルじゃなく、夜の町や、それこそ家政婦まで、これはと思った女を集ろ。春画を描こうじゃないか。
作家名:バロン椿
文字数:約2720文字(第10話)
管理番号:k086
鈴木画伯の悩み
うだるように暑い8月、鈴木画伯のアトリエからは悩ましい喘ぎ声が外に漏れていた。それを聞いたマネージャーの岡田が「せ、先生、な、何をやっているんですか!」と青くなって飛び込んできた。
しかし、「岡田、何を慌てているんだ?」と鈴木画伯はキャンバスに向かっていた。喘ぎ声はテレビに映し出されているアダルトビデオのものだった。
「あっ、いや、変な声が外にも聞こえたもので」
「ははは、そうか、外にも聞こえたか、ははは」
「先生、笑い事ではありませんよ」
岡田はビデオを止めると、不愉快そうに画伯の隣に座った。
「そんなに怒るな」
「怒ってませんけど、朝から何を見ているんですか」
「アダルトビデオを見ながら、あの時のことを思い出しているんだが、どうもしっくりこないんだ」
キャンバスには写真と見間違えるほどにリアルなものが描かれているのに、何が不満なのか、全く分からない。
「幸代さんの切なそうな顔、和夫君の切羽詰まった顔、それに耳に残っている、あの喘ぎ……だが、どうも上手く描けないんだ。こんな絵ではチンポコ立たないよな?」
「はあ、そうですか」
「その点、河合の絵は違う。あの場所で、まさに幸代さんと和夫君がしていた顔や息遣いを、あいつの絵からは感じるんだな、リアルだよな」
ボヤく鈴木画伯に岡田は思わずクスッと笑ってしまったが、「何だ、おかしいか?」と画伯はジロッと睨んだ。機嫌が悪い。
(全く、負けず嫌いなんだから。しょうがねえな。少し毒のある話でもするか……)
「あ、いや、すみません。あの、先生は別名『脱がし屋の鈴木さん』と呼ばれているのを知ってますか?」と聞きようによっては最も不愉快な話を持ち出すと、案の定、「ああ、知っているよ。不愉快な名前だ」とタバコを咥えた画伯はぷぃっと外を向いてしまった。
「そんなに嫌わなくてもいいじゃないですか」
「ふん!お前までそう言うのか」
「生意気なことを言うようですが、それが先生の強みなんですよ」
「何が強みだ。気に入らん!」
画伯は吐き捨てるように言った。「脱がし屋の鈴木さん」と言われることが本当に嫌いなのだろう。逆鱗に触れてしまうかも知れない。だが、言うべきことは言わないと、それがマネージャーの務めだ。
岡田は一息入れようと、タバコを取り出そうとしたが、手が震え、なかなか取り出せない。怒ったといっても、信頼する岡田だ。
「ほれ」と画伯が一本差し出してくれた。
「あ、すみません」とそれを受け取った岡田は「お、怒らないで下さいよ」と一歩下がったが、「怒ってなんかいない」と画伯は近寄り、火をつけてくれた。口をへの字に曲げてはいるが、岡田の言葉は聞く気持ちがあるらしい。
「何か言いたいなら言え」
「はい……先生は『脱がし屋の鈴木さん』でいる時は、本当にぎらぎらしています。でも、それでスケベな感情を全て使い果たしてしまうから、絵を描く時は、雑念も何もかも消え、純粋な絵描きになっている。だから、本当にリアルな、写実主義の鈴木画伯になれるんです」
「お前……」
画伯はタバコをふかすのを止め、岡田の顔をじっと見ていた。
「でも、河合先生は違う。女性を脱がすことは自分では絶対にしない。アシスタントがすることだと考えているから、モデルが嫌がったり、泣いたりしても、黙って見ているだけ。そして、自分の中に湧き上がってくる、スケベなことも含めた全てをダシにして、最後に自分の中にある印象的な部分を描きます。だから、絶対に『脱がし屋の河合先生』は演じない。それをやったら、腑抜けになってしまいます」
岡田はやや青ざめた顔でタバコを大きく吸い込み、そして、それをふぅーと吐き出した。
「ははは、岡田、お前も立派な評論家になれるぞ」
「えっ、先生……」
鈴木画伯は「一本取られた!」という顔、岡田の肩をポンと叩くと、「旨いなあ」と気持ち良さそうにタバコを吸いこんだ。
「お前に弱みを見抜かれていたって訳だ。ははは、いやあ、引退してよかった。あははは」
「す、すみません。生意気なことを言ってしまって」
「いいんだ、いいんだ。それでこそ、俺のマネージャーだ。改めて感心したぞ」
岡田は画伯に褒められ、笑顔でくしゃくしゃになっていた。普段は、美術記者、画商などから「やかましい奴」、「威張るなよ!」と陰口を叩かれているが、この時ばかりは「可愛い奴」になっていた。
多恵の説得
「米さん、お願いだよ。引き受けておくれよ」
「しかし、人前でそんなこと、俺には出来ないよ」
「人じゃないよ、絵描きだよ。私も裸になったことがあったけど、絵描きにとって、誰の裸だっていいんだよ。姿形を描くだけなんだよ。『はい、脱いで』、『横になって』、そして、『ご苦労さま』。これだけ。出来上がった絵は『高原にて』、『水浴び』なんて名前がついて、見る人もモデルは誰だ?なんて、詮索もしない。そんなものよ。だから、頼まれておくれよ」
「しかし……」
多恵が口説いていたのはこの別荘に出入りする植木職人の山田(やまだ)米蔵(よねぞう)、通称“米さん”だ。
米蔵は農家の次男として生まれたが、農家の宿命、長男が全ての田畑は相続するから、次男に財産は回ってこない。遅かれ早かれ家を出て行かざるを得ない。
彼は中学を卒業すると、手っ取り早く現金が稼げる土木工事の現場で働き出した。だが、そこは尋常なところではなかった。その日暮らしの金を求め、日本全国から様々な男たちが集まる場所だ。中にはヤクザじゃなくても背中に紋々を背負った者も多くいた。
中学を出たばかりの何も分からぬ子供を騙すことは訳ない。米蔵は悪い奴らに誘われ、気がつけば、背中には龍の刺青を背負い、ヤクザ同然の暮らしとなっていた。
そんな時、ふとしたきっかけで知り合ったのが多恵だった。
「あんた、年幾つ?」
「うるせえなあ、ババア!」
こう怒鳴れば、殆どの者が逃げ出すが、多恵は違っていた。
「ババアとは失礼でしょう。ケツの青いガキのくせに」と怒鳴り返し、最後には今の親方の元に弟子入りまで世話を焼いてくれた。
そんな多恵に、「お願いだよ。頼まれておくれよ」と頭を下げられたら、ダメだとは言えなくなってしまう。
「分かった。分かったから、もう頭を上げてくれ、多恵さん」
「いいのかい?」
「多恵さんの頼みだ。仕方がない。で、俺はどうすればいい?」
「鈴木芳太郎って偉い絵描きのお屋敷に行っておくれ。そこで植木職人として働いて、モデルになれって声が掛かるのを待つんだよ」
「何だか変な話だな」
「絵描きはみんな変わっているんだよ」
義理と人情に厚い職人の世界に生きる米蔵には、それ以上の理屈はいらない。
「じゃあ、行ってくるよ」
彼は植木ばさみなどの商売道具を背負い、鈴木画伯の屋敷に向かった。
(続く)
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