闇の男-第2話
日本の夜の世界を支配する男、武藤(むとう)甚一(じんいち)と、それに立ち向かう元社会部記者、「ハイエナ」こと田村編集長らとの戦いを描く、官能サスペンス長編。
作家名:バロン椿
文字数:約3060文字(第2話)
管理番号:k077
「絵画展で入選されれば直ぐに返済できますよ」と言われ、高校の美術教師ではなかなか出来ない海外美術館巡り、それに高級な絵の具、カンバス購入等、全て画廊からの借金で賄っていた。
それを突然返せと言われても、「いや、急に言われても……」と言葉に詰まってしまう。
だが、根岸に見切りをつけた町田は借金の形に、彼の妻、根岸美智代(みちよ)を奪い取ろうと考えていた。
「娘さん、大きくなりましたか?」
「はあ、小学校2年になりました」
「まだまだ奥様はフルタイムで働くことが難しいですね」
「いえ、昨年からパートに出ております。家内の両親が世話してくれますから」
「なんだ、根岸さん、水臭い。他所で働かなくてもいいのに。うちで働いてくれれば、旦那さんの独立まで支援出来るのに」
「いや、それは」
根岸の顔色が変わった。
「根岸、あの町田だけは止めておけ。女房を形に取るって噂だぞ」
5年前、町田から契約を持ちかけられたと親友の高木(たかぎ)が忠告してくれたが、有頂天になっていた根岸には耳に入らなかった。
「大丈夫だよ、高木。僕もいよいよプロになるんだから、来年は個展かな、ははは」
だが、世の中、そんな簡単にはいかない。
小さな美術展では入選するが、大きなものでは全くかすりもしない。
画廊からの借金も多額になっていた。
「画廊で働け」ということは「俺に女房を差し出せ」と言われているのと同じだ。
「まあ、奥様とよくご相談なさい。あなたの将来に関わることだから」
動揺する根岸を前に町田がお茶を啜っているところに、秘書が次の予定を知らせにきた。
「川島雄介さんがお見えです」
「ほほう、来たか。若い才能に巡り会えるのは楽しみですな。根岸さん、この件について奥様とご相談なさい。それでは」
ニヤッと笑って席を立つ町田の目は冷ややか、そんな町田に「バカ野郎!そんなこと、女房に言える訳がないだろう!」と言えない悔しさに震える根岸は重い足取りで帰っていった。
面通し
「いやあ、よく来たね」
町田は今日もスーツで決めている。
こんな大人になりたい、そう思わせるには十分な出で立ちである
「雄介君、いい人を紹介しよう。こちらだ」
連れて行かれたのはアートギャラリー・マチダの奥の専属画家用アトリエだった。
「雄介君、紹介しよう、朝岡(あさおか)悦子(えつこ)さん。今日から君の先生だ」
「よろしくね、雄介クン」
大先生が「合格したんだ」と言っていた通り、いきなり「君の先生だ」と、プロの画家を紹介されたが、彼女が身に付けている服は普通のオバチャンが着るような地味で粗末な物。
「本当に絵の先生?」と疑ってしまう。
それに初対面なのに「雄介クン」なんて、馴れ馴れしい。
雄介はちょっと気に入らなかったが、専属の先生と思えば我慢しなければいけない。
「雄介クン、時間、あるの?」
「ええ、少しは」
「じゃあ、一緒にデッサンしよう」
教えてくれることは線の引き方や構図の取り方と言った基礎的なものだけだが、試されていると思うと気が抜けない。
1時間後、「また、いらっしゃい」と言われた時、ぐったり疲れていた。
朝岡悦子が雄介を見送ると、町田がアトリエに入ってきた。
「ご苦労さん」
「いいえ」
「ところで、あの子、どうかな?」
「いいと思うわ。社長が『中学生みたいだ』と言っていた通りね。華奢で可愛い顔、それに産毛しか生えていないの」
「そうか、悦子、気に入ったか?じゃあ、お前に預ける」
「ふふ、任せて。だけど、根岸の方はどうなの?」
「2、3日で結論が出るさ。答えは決まっているけどね」
「武藤先生の依頼にはあの奥さんが絶対に必要なのよ」
「分かってる」
町田は「心配するな」と朝岡悦子のお尻をポンポンと叩くと、アトリエを出て行った。
熟れた獲物
3日後、待ちかねていた女性がやってきた。
「いやいや、よく来てくれました。美智代さん」
「こちらこそ、社長さんにはいつも主人が大変お世話になっております」
根岸美智代、35歳、一児の母。
専属契約の打ち切りを迫られている根岸の妻だ。
昨晩、夫から「社長が呼んでいる」と言われ、「展覧会のお手伝いかな?」と軽い気持ちで訪ねてきたのだが、社長室で聞かされた話は耳を疑うものだった。
夫がよからぬ筋から2千万円ほど借金があり、直ぐに払わないと学校に乗り込むとその筋から警告がきているという。
「あの、その筋というのは?」
「まあ、怖い人たちですよ。だが、ご主人の才能は惜しい。できれば、私が肩代わりしてもいいと思っている。しかし、プライドの高いご主人はそれをよしとしない。私は困っているんですよ」
借金があるのは事実だが3百万弱で2千万は全くの出鱈目。
そして「ご主人の才能は惜しい」とか「プライドの高いご主人」などと持ち上げる一方、「その筋が学校に乗り込む」などと言われたら、普通の人は「私が肩代わりする」という町田の話にすがるしかなくなる。
「社長さん、その……2、2千万円は私が働いてお返ししますから、なんとか主人を救って下さい」
だが、狡賢い町田はいい顔を見せた上でもう一度突き放す。
「奥さんにそう頼まれれば肩代わりしてもいいですが、しかし、失礼だが、今のパートの収入で払える額じゃないですよ、2千万円というのは」
「社長さん、助けて下さい。何でもしますから、お願いします」
「何でもしますって言われてもねえ」
「お願いです、社長さん、助けて下さい。お願いですから……」
ここであきらめたら全てを失う、美智代は泣きながらすがってくる。
そると、町田は「そうですか、根岸さんの奥さんがそうまでおっしゃるのなら、考えてみますよ」と笑顔を見せたが、「ありがとうございます…」と涙で言葉が続かない美智代を見下ろす、その顔にはいやらしい笑いが含まれていた。
代役の依頼
「美智代さん、あなたに頼まれて欲しいことがあるんだけど」
アートギャラリー・マチダに勤め始めてから1週間。
毎日、簡単な書類整理だけだったが、帰り際に社長の町田から呼ばれた。
「モデルにドタキャンされてしまって、困ってるんだ。美智代さん、突然で申し訳ないが、代わりを引き受けてもらえないか?」
「モデルなんてしたことがありませんけど」
「儲かる仕事ですよ」
「でも、もう5時ですから」
「いや、ご主人に連絡したら『お役にたてるなら』と了解して頂いた。家の方は心配いらないからって仰ってましたが」
「主人がそう言ってましたか……」
外堀は美智代の知らないところで既に埋められていた。
中肉中背、美人でもない自分がどうしてモデルをするのか、美智代は理由が分からなかった。
だが、夫の借金の返済のためなら、出来ることはなんでもすると約束していたので、美智代に選択肢はなかった。
「心配いりませんよ。写真のモデルだから、簡単ですよ。カメラマンの指示通りにすればいいから」
気が進まぬまま車に乗せられ、連れて来られたのは写真スタジオではなくホテルのスイートルームだった。
「待ってたんだよ。すぐに撮影だからね」
40歳くらいの男性カメラマンと長い髪の30歳くらいの女性スタイリスト、それに、「先生」と呼ばれる男が待っていた。
室内には三脚に固定したカメラの他、照明用のストロボや白い背景紙が既に設置されていた。
ソファーにはキャラクター人形、それに撮影に使うと思われるワンピースなど数着の衣装もハンガーにかけて用意されていた。
「うん、最初はそのままでいいよ。カメラの前に立って。ライト点けるよ。少し眩しいけれど我慢してね」
カメラマンがそう言うと、手に持っていたバッグなどはスタイリストが受取り、美智代は白い背景紙のまえに立たされた。
(続く)
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