私たちの結婚-第7話

私たちの結婚-第7話

作家名:バロン椿
文字数:約2750文字(第7話)
管理番号:r701

私の再婚

再会

私、三浦(みうら)由美子(ゆみこ)は40歳の時、夫の家庭内暴力に堪えられず、中学3年生の娘を引き取って離婚しました。
でも、そんな夫ですから、養育費を満足に払ってくれるとは思えませんでした。
とにかく働かなくては、母娘で暮らしていけません。
場所はコンビニ、スーパー、雇用形態はアルバイト、パート、そんなことには構わず、いろいろな仕事をしました。
そして、ようやく、落ち着いて生活ができるようになったのは、45歳の時、市立図書館の司書として嘱託採用が決まってからです。

「お母さん、行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい」
毎日、こうして娘を送り出す、ささやかな幸せ。
本当に良かったと思います。
しかし、まあ、良いことって続くものです。

「由美子さんじゃないの?」
「えっ、秋山さん?」
「久し振りだな」
思い掛けない再会です。
勤めて半年後、図書館の館長が更迭され、新しく赴任してきたのが、中学の同級生、秋山(あきやま)孝雄(たかお)さんだったのです。
私はバレーボール部、彼はバスケットボール部、ともにキャプテンでしたから、体育館の占有時間割について、何度もケンカした仲です。
何年か前の同期会の時、市役所に勤めているとは言っていましたが、まさか、同じ職場になるとは想像もしていませんでした。

「なんだ、離婚したのか。大変だね」
45歳を過ぎれば、何も隠すことはありません。
身の上を打ち明けると、以外にも彼も独り身でした。
「へへ、私もだよ」
奥さんとは性格的に合わず、家庭内でのいざこざが絶えなかったそうで、子供がいなかったことから、3年前に別れたと言っていました。
「全く甲斐性がなくてね」
孝雄さんは自嘲的に言ってましたが、職場で見る限り、責任感の強い、頼れる上司でした。

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語らい

「由美子、飯でもどうだ?」
「あら、いいわね」
私たちは時々、一緒に夕食に出掛けました。
気安く「由美子」、「秋山君」などと呼んでも、周囲の者は中学同級生と知っていますから、「ああ、そうですか」くらいの関心しか持ちませんでした。
「あの時、よくケンカしたな」
「そうよ、秋山君が譲らないからいけないのよ」
「だって、由美子が『勝てないバスケに使わせるのはムダ』なんて言うからだよ。『秋山、絶対に譲るな』って、皆が俺の背中に銃を突きつけているんだ。しょうがないだろう」
「秋山君はいつもそういう役回りね」

私自身は孝雄さんには悪い印象を持っていませんでした。
それよりも、むしろ、他の同級生に比べたら、ずっと大人だと思っていました。
「実は、まあ、この年だから許してよ。由美子が好きだったんだ」
「ふふ、ウソばっかり。秋山君は星野先生一筋だって、女の子の間では有名だったんだから」
星野先生とは、当時、24歳の英語教師で、バレーボール部顧問でした。

「星野先生は憧れ、でも本命は由美子。あんなにケンカしてたら、好きだなんて言える訳無いだろう」
「そうか、私が秋山君の初恋の相手だったのか、ふふふ、悪くないわね」
「ははは、告くるのに、30年もかかってしまったよ」
同級生だからできる、他人に聞かれたら笑われるような会話ですが、私はとても嬉しかった。
「なんだか、中学のこと、思い出しちゃった」
「ははは、昨日、卒業アルバムを見てきたよ」
「いやね、今と比べたんでしょう?」
「今の方が美人だよ」
「まあ、お上手だこと」

今度も、他人が聞いたら、「いい加減にして下さい!」と叱られてしまうような会話です。
しかし、楽しい時というのはあっと言う間に過ぎるものです。
時計を見ると、もう午後9時です。帰らなくてはいけません。
「なんだかバレーボールがしたくなってきた」
名残惜しさに、こんなことを言ってしまいましたが、「すればいいじゃないか。市役所の同好会に入ったら?」と孝雄さんは真面目な顔で勧めてくれたのです。

実は、私、大学生の時までバレーボール部に所属し、結婚してからもママさんバレーを続けていました。
でも、離婚のごたごたで止めていました。
「見てみたいな、由美子のアタック。ジャンプして、ビシッと決める音、覚えているよ」
「ははは、昔の話よ、そんなの」
「そうかな。今もスリムだし、いけるんじゃないの?」
褒め上手です。
ムズムズはしましたが、やはりブランクがあります。
「いまさら、出来ないわよ」と一旦は断りましたが、「年齢別にチームがあるから、紹介してあげる。由美子なら40歳チームのエースだよ」と、孝雄さんに言われ、「じゃあ、やってみような」と話がとんとん拍子に進んでしまいました。

大怪我

孝雄さんに背中を押されて、久し振りに参加したバレーボールでしたが、やはり以前とは違います。
「取れる!」と思っても、足が前にでません。
「今度こそ!」とついつい頑張り過ぎてしまい、とうとう太腿の裏を痛めてしまいました。
「お母さん、やめてよ。恥ずかしいから」
20歳の娘からはそう言われましたが、せっかく紹介してもらったもののです。
簡単に辞めるわけにはいきません。2ケ月、じっくり治して復帰しました。

「無理しないで下さい」
「はい、もう年ですから」
口ではそう言いましたが、私だって、元は大学のエースアタッカーです。
「こっちに回して!」と呼びこみ、「えい!」と決めて、とうとうレギュラーの座を獲得しました。
「明日は試合か。よし、皆で応援だな」
孝雄さんがこう呼び掛ければ、図書館の職員の皆さんは応援に駆け付けない訳にはいきません。

「それ、決めろ!」
当日は孝雄さんが応援団長となって声援を送りますから、私は手を抜けません。
アタックが決まると、「三浦さん、凄い!」、「やっぱり本物よね」と大きな声援が聞こえてきました。
こうして、一躍、図書館中の人気者になりましたが、やはり年齢には勝てません。

あれは晩秋の冷え込む体育館での試合の最中です。
一進一退のゲームに、「頑張れ、三浦さん!」と応援席の声援に押され、調子の良かった私は、「こっちよ!」とボールを読んで、「よし!」とアタックを決めたと思った瞬間、「バッチン!」と音がして、左足かかとに激痛が走りました。
アキレス腱断裂です。
「由美子、大丈夫か!」
応援席から飛び出してきた孝雄さんに抱き上げられ、そのまま車で病院に直行しました。

「手術は午後7時からです」
そう告げられ、病室で待っている時、「お母さん!」と娘の明美が飛び込んできました。
「だからやめてって言ったじゃない」
彼女は私の様子を気遣いながらも、孝雄さんをずっと睨んでいました。

翌日から生活が一変、なにしろ、左足は膝上までギプスで固定されていますから、トイレに行くのも一苦労でした。
しかし、「明美はどうしているのか?」と頭に浮かぶことは娘のことばかりです。
術後5日目、ようやく退院。
「お母さん、よかったね」
娘が迎えに来てくれましたが、孝雄さんの姿はありませんでした。

(続く)

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