月夜の秘め事-第1話
ひろしはウォーキングの途中で不思議な石積みを見つけた。その石積みには美佳という美しい石霊が宿っていた。ひろしは美佳という石霊に惹かれていく。ある月夜の晩、石霊である美佳はひろしを秘め事に誘う。
作家名:城山アダムス
文字数:約1900文字(第1話)
管理番号:k146
僕の名前は「ひろし」
55歳の会社員だ。
僕は4か月前から毎朝5時から1時間ほどウォーキングをしている。
ウォーキングを始めたきっかけは、会社の健康診断でコレステロール値が高いのを指摘されたからだ。
同い年の妻は
「あなたに先に死なれたら困るわー」
と普段の食事により気を遣ってくれるようになった。
コレステロール値を下げるためにはウォーキングなどのエアロビクス運動が効果的であるらしい。
僕は妻のためにもコレステロール値を改善しようとウォーキングを始めたのだ。
ウォーキングを始めたのは去年の12月だった。
師走の冬の寒さは堪えた。
でも、今は桜の季節。
桜の咲くこの時期は鵯の囀りを遠くに聞きながら歩いている。
桜の花びらが朝日に輝く中、桜島の見える峠の静かな小道を歩いていると、清々しい爽やかな空気で胸いっぱいになる。
早朝の冷気を帯びた空気が肺に沁み渡り、心地よい疲労感を伴う。
この峠からの下り道に立つ、一本の桜の木の下で遭遇した不思議な石が、僕の運命を変えることになるとは、まだ知る由もなかった。
小高い丘を登り切ると、目の前に鹿児島の市街地、そして錦江湾の向こうに桜島が見渡せる峠がある。
峠で道が左右に別れている。
右に曲がれば家へまっすぐ帰れる。
いつもは峠の分かれ道を右に曲がるのだが、なぜかその日は反対の左側に曲がりたいと思った。
少し遠回りして帰りたくなった。
峠からの下り坂を歩いていると、朝露に濡れた湿った土がぺちゃぺちゃと靴底に纏わり付く。
靴の中が湿ってきて気持ち悪い。
遠回りをしようとしたことを後悔した。
湿気の多い坂道を下っていると、ひっそりと佇む一本の桜の木があった。
桜は満開だった。
僕はこの桜の木のもとで足を止めた。
いや、桜の木に止められたような気がした。
枝先まで咲き誇る桜の花は、朝の光を浴びてまるで無数の星が降り注いだように輝いていた。
風が吹くたびに、薄紅色の花びらがふわりと舞い上がり、空中に柔らかな霞を描く。
その一瞬の美しい姿は、まるで「ここにおいでよ」と優しく手招きしているかのようでもある。
満開の桜がもたらす木陰が、穏やかで温かな休息の場を提供してくれているようだった。
その木陰に立つだけで、心の中に春の香りと安らぎが染み渡るのを感じた。
僕の周りの世界が柔らかで暖かな薄紅色に包まれ、自分もその一部であると感じられるほど、大きな優しさに包まれた気持ちになった。
桜の木の下に握りこぶし大の石が積み上げられていた。
いちばん下に3個、2段目に2個。
そして、1個だけごろんと地面に転がっていた。
その石がとても気になった。
僕は転がっていた石を拾い上げた。
たぶん、てっぺんに載せる石だろう。
「ん?」
温かい。
ひんやり冷たいはずの石が体温を保っているように温かかった。
なんだ、この石?
不思議に思いながら、石積みの一番上に積み上げた。
その瞬間、耳元で
「ふふふ・・・ありがとう・・・」
と女性の声がした。
ビクッとして、辺りを見まわす。
誰もいない。
空耳に違いない。
僕は逃げるようにその場を早足で去った。
いったい何だったのだろう?
気にはなったが、出来るだけ深く考えないようにして帰宅した。
その日は普段通りに出社した。
朝からしんどいクレーム処理に追われ、あっという間に一日が終わった。
家に帰ると、妻が夕飯の支度をしていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。今日は早いのね」
「ああ、今日は疲れたから早めに帰って来たよ。風呂、湧いてる?」
「湧いているわよ。先に入ってきて。ご飯もうちょっとかかるわ」
「ああ、そうするよ」
風呂上りに缶ビールをプシュッと開ける。
正確に言うと糖質オフの発泡酒だ。
「ねぇ、そう言えば、今日いたずらがあったの」
「いたずら?どんな?」
「郵便受けに石が入っていたのよ」
「郵便受けに石?」
「小学生のいたずらだったら、まだいいけれど・・・ほら、犯罪の下見に来た人が何かサインを残していくって聞いたことがあるでしょう?そんなんだったら、怖いわよね」
郵便受けに石が入っていた?
今朝の桜の木の下での出来事を思い出した。
「下見?下見ならもっと気付かれないようにサインにするだろ?で、その石はどうした?」
「取り敢えず、ポストの下に置いておいたわ」
「後で僕がどっかに捨てておくよ」
夕食の後、ポストの下を見に外へ出た。
やはり、桜の木の下に転がっていた、あの石だ。
恐る恐る手を伸ばし、その石に触れてみた。
ひんやり冷たかった。
草むらに捨てようとしたが、なぜか捨てる気になれず、ズボンのポケットに隠すように石を持ち帰った。
そして、石をクローゼットに隠した。
今考えると、どうしてあの石が家のポストに入っていたのか、どうして石を家に入れたのか、分からない。
(続く)
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